決してあきらめない障害者の作り方

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出生時、「3,4日の命」と言われた私がすでに40代。
「人生あきらめなければ何でもできる」を
全ての人々に証明したい。
そんな私の生命エネルギーが燃焼する瞬間を語ります。

阪神タイガース

トラキチの奉子、こうして誕生する

投稿日:2017年1月8日 更新日:

甲子園球場外観 奉子です。私は筋金入りの阪神タイガースファンです。

今日は私がトラキチになるまでの軌跡をお話しします。

一般的に親が阪神ファンの場合、シーズン中はTVやラジオ等の野球中継を親が見るため、子どもも自然と阪神ファンになる場合が多いです。

しかし、私の場合はこうでした。

両親は広島出身。なのに阪神ファンになった理由とは

私の両親は広島出身です。

広島と言えば2016年、25年ぶりの優勝をした広島カープという球団があり、両親は当然広島ファンです。

そんな私が阪神ファンになったきっかけは、9つ年上の姉の影響でした。

有名な1978年の江川事件により、阪神に突然トレードされた小林繁氏のことを不憫に思った私の姉が、阪神ファンになったのです。

家にいるときは姉とくっついていた私は、姉が見る阪神中継を一緒に見ていたため、自然と阪神ファンになりました。

家にタカラのボードゲーム「阪神VS巨人」というのがあり、訳も分からず姉と一緒に遊んでいた記憶があります。

私の好きになった選手の経歴は

私がタイガースの中で好きになった選手はこんな順番です。

3歳~6歳:掛布 雅之
6歳~8歳:若菜 嘉晴
8歳~13歳:山本 和行
10歳~ :和田 豊

軽く解説しますと、掛布は言わずと知れたミスタータイガースです。

若菜は同時のキャッチャー。その当時の若菜は30歳手前ぐらい。

阪神時代の話よりも、現役引退後指導者として、ソフトバンクを常勝軍団になる立役者となったあの名捕手、城島を育てた人物という方が有名かもしれません。

私が小学1年の時に当時の大洋ホエールズ、加藤博一のバットが当たり骨折。それを境に1軍の試合に出場しなくなる。

7歳や8歳の子どもにとって、TVに出てこなくなると応援する気が失せるもの。

 

厳禁な私は、同時期に活躍していた抑えのエース「山本和行」の応援を始めます。

今は当たり前となった「あとひとりコール」も彼が始まりとされ、9回にピチャッと抑えてタイガースが勝つ姿は、子どもながらに「カッコいい」と思ったものでした。

 

山本和行は、タイガースが21年ぶりの優勝を果たした1985年9月にアキレス腱を断裂。優勝が決まったときはまだ怪我の療養中でした。

当時の私にとってカズがいない優勝はとても寂しかったことを覚えております。

1985年のシーズンオフ、写真入りの山本和行のグッズがほしくて阪神百貨店に行きましたが、下敷きがなく、透明のハードケースに入れる厚紙使用のものがあったのでそれを購入しました。

実家に行けば今でも大切に保管してあります。

今でもリスペクト。和田豊との出会い

和田豊、阪神ファンでこの名前を知らない人はいません。

縦縞一筋、球団初の1億円プレーヤー、現役17年。その後一度もユニフォームを脱がず、コーチ、そして第32代阪神タイガース監督にまで上りつめた人物。

現在は阪神球団史上初のオーナー付シニアアドバイザーです。

 

そんな和田さんが阪神タイガースに入団したのが、1985年。

そう和田さんはあの優勝した年のルーキー選手です。

 

また例のごとく、当時10歳。代打で出てきた和田さんが1軍出場3試合目ぐらいのときに突然思い立ちます

「なんかカッコいい。私、この人応援する」 はい。とっても安直です。

それをきいた私の姉がびっくりします。「うちの妹、今までおっさんばっかり応援してたのに、和田って誰?しかもルーキー!なんでや??」

初めての球場生観戦。広島市民球場

阪神応援団

私の初めての球場生観戦はやはり10歳。場所は広島市民球場でした。

両親が広島出身だったため、お盆に帰省し、そのときにちょうど阪神戦が広島市民球場で行われており、母と3人で見に行くことにしました。

 

子どもふたりが阪神ファンだったため、座ったのは阪神側の3塁内野スタンド。

初めて見る応援団。初めて生で聞く応援歌。そして相手側の応援、応援歌。そして球場の食べ物。何もかもが初めてづくし。

「カープうどん」を食べたのは今でもよく覚えています。

 

しかし、やはり一番心に残ったのは応援歌でした。

なんとなくTVを見ていた私には「選手別の応援歌がある」なんて事は知らなかったので、とてもびっくりしました。

そこにいる人達は応援団の人も含めてみんな応援歌を歌っています。

10歳の私のとってそれを覚えることはとても簡単でした。

 

私が広島市民球場初観戦をした日も和田さんは代打で出てきました。

それなのに私の目の前にいた応援団のおじさんが佐野と間違えて応援し、ひとりで「和田やのに」って思っていた私でした。

その日から私はTV中継を見るときは必ず応援歌を歌うようになりました。

初めての甲子園観戦は18歳→大学入学後、私が真のトラキチへと変化する

私の初めての甲子園観戦は18歳。高校3年生の時です。

姉が連れて行ってくれました。しかも当時座ったのは1塁内野指定席。アルプス席でもありません。

TVでしか見たことのない甲子園球場、感動でした。

10歳以来の8年ぶりの生観戦はやっぱり楽しかった。今度は1年に1回ぐらいは来たい。その程度だったはずなのです。

 

 

しかし、転機は大学入学後のときです。

障害のため、体育の授業だけ「障害者体育」という皆と別の単位を取りました。

また、一般教養の科目で漢文かなにかやはり、全く皆と別の少人数の科目を取ったのです。

そこのは同じ史学科の知り合いはいません。

 

自己紹介をするのになんとなく、私はつい「私、阪神ファンやねん」と必ず付け加える自分がいました。

その一言で「僕も阪神ファンやで」「私も阪神ファンやで。友達にもめっちゃ好きな子がおるで」

そんな調子でどんどんどんどん私の周りの友達は阪神ファンが増えていきました。

始まった甲子園観戦。いつの間にかライトスタンドデビュー

甲子園球場外野スタンド

階段の多い甲子園球場、ひとりで観戦に行くのは無理でも、友達と一緒なら可能です。

人の手助けなしではいけない私でも「チケットは私が取るけど一緒に行ってくれる?」と声をかければ、みんな「行く行く。手ぐらい貸すわな」という感じです。

しかも時間に余裕がある大学生です。

1年前、年に一度ぐらいはこれたら良いなの甲子園球場は6週間に一度来るところになっておりました。

当時のチケットは試合の6週間前に発売される仕組みだったので、そうしていました。

 

そしていつの間にかあの最も大声で応援するライトスタンドに私もおり、勝利した場合は六甲おろし熱唱後、スターティングオーダー1番~9番までの選手全員の応援歌を歌って帰るようになっていました。

 

こうして、TV観戦でも必死で応援する「おっさんトラキチの奉子」が形成されたのでありました。

暗黒時代、和田さん目当ての甲子園

ご存じの通り、1985年の阪神優勝後は阪神は暗黒時代に入り、2003年まで優勝しません。

そう、私が甲子園に通い始めた大学時代は阪神は暗黒時代。弱かったのです。しかし当時は意外と5割ぐらいの確立で勝っていました。

 

私の目当てはもちろん和田豊。この頃はもうバリバリのセカンドのレギュラー。バント職人。ヒットメッカー。

暗黒時代も毎年「優勝したい」と言い続けたのは和田さんただ一人だったと思います。

 

和田さんが好きすぎて、もう遠くからのシルエットで「和田さんいた!」とわかる腕前です。

「返事が来ないかなあ」と毎日ファンレターの返事を待ち続ける馬鹿な時代もありました。

 

私が見に行った試合で試合に負けたとしても、和田さん個人の成績が良ければ良しとしている自分もおりました。

甲子園、それは私のエネルギー源

甲子園球場大好き

私は甲子園球場が好きです。

京セラドーム大阪で野球観戦するときもありますが、なんだかもの足りません。

甲子園球場での応援は地響きがし、独特の一体感があります。

大きな声で応援する、声を出すということはものすごくエネルギーを使います。

 

日頃の鬱憤を発散するために球場に来ている人は多いです。

そのため、負の気持ちが包まれているものも多くあると思うので、人によっては逆にとても疲れる場所である場合もあります。

 

でも私は、あの甲子園球児が汗と涙で一生懸命戦っている球場でもある甲子園球場の良いエネルギーだけをたくさんもらって帰ります。

自分自身も日頃の鬱憤をスタンドで大声を出して発散し、球場の大きなエネルギーを日々の力に変えています。

 

甲子園に行く回数は最近は減りましたが、これからも甲子園はずっと私の大好きな場所です。

そして私がタイガースファンを辞める日もきっとないことでしょう。

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