決してあきらめない障害者の作り方

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出生時、「3,4日の命」と言われた私がすでに40代。
「人生あきらめなければ何でもできる」を
全ての人々に証明したい。
そんな私の生命エネルギーが燃焼する瞬間を語ります。

障害と私

何かで一番になりたい~障害のある私の小学生時代~

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奉子です。今回は私の小学生時代の話をします。

決して、楽しくなかった小学生時代

学校

無事に養護学校ではなく普通校に入学するも、決して友達は多くありませんでした。

そりゃそうです。皆と同じように走ったりできないし、歩くのも遅いし、私と同じグループだとめんどくさいからです。

それでも仲良しの子は0ではありませんでした。

Yちゃんは家も近所で、お互いの家を遊びに行き合ったりしていました。

彼女は行事や体育の班分けのときに私を同じグループに普通に誘ってくれたりもしました。

友達のいない私にとって、そんな彼女の存在はとても大きかったのです。

学年違いの近所の男の子に言われたひとこと。先生激怒。そんなにアカンことなん?

11歳のときに引っ越すまでに過ごしていた家は近所づきあいもあり、近隣の子と遊ぶことも多かったのです。

ある時、近所の男の子がこんなことを私に言いました。

「なあ、ともちゃんの足はいつ治るの?大学4年まで治らないんちゃうん?」

この時確か、2年生。

私はこれを聞いて「え?大学4年で治るんやったら超ラッキー。それなら嬉しいけどまあ無理やろう」と思っていました。

 

このことを私は学校の作文に書いたのです。

はっきり言って書きたくなかったけど、毎週作文を書かされて、それしかネタがなかったのです。

するとその作文を読んだ担任の先生が激怒。

その近所の男の子の担任の先生に伝達され、彼はわざわざ私の教室まで謝りに来さされるはめになりました。

彼には悪いことをしたと思います。

別に私は自分の足が一生治らないことなんて、すでに気にならなかった

私は別にこのことに関して、全く傷ついてもいませんでした。

だから謝ってもらう必要もなかったのです。

先生からしたら、一生足の治らない子に関して、「いつ治るの?」って聞くことはタブーとからかいに聞こえたのかもしれません。

でも私からしたら「そんなことはとっくにわかってるし、むしろ、昔はもっと歩けなかったのにできることが増えてきていることが嬉しい。

このまま大学生になるころには、どんな自分になっているのかなあと思っていたのです。

またひとりぼっち。わかるけどつらかった出来事

子供たち

私にはそんなことよりつらい出来事があったのです。

仲良しのYちゃんのお母さまが「奉子さんと自分の子は同じ班にしないでください。」と申し出を行ったのです。

いつも同じ友達とばかり遊ぶので、自分の娘がほかの友達とは遊ばなくなって交友関係が狭くなる

今考えると、娘を心配する親心なのはよくわかります。

しかし、私にとって、クラスで唯一本当に仲良しの親友と、強制的に離されることは本当につらかったのです。

結局、私が小学生6年卒業時ににとても仲が良いといえた友達は、Yちゃん以外にクラスにはおらず、他のクラスにいた2名のみでした。

「ありがとう」がいえない。誰かにしてもらうのは当たり前だと思っていた傲慢な自分

お恥ずかしい話ですが、私は小学校5年まで、ごく当たり前の「ありがとう」が口から出にくかったのです。

私の母はどこに行っても一番に挨拶する人でした。

歩いても長距離が歩けないため、母は4年までは私を赤ちゃんが使用するベビーカーに私を乗せていました。

そして、私はほぼ必ず、母と一緒に出掛けていました。

 

何でも母が「おはようございます」や「ありがとう」を先に言ってしまうため、どこかで私は「お母さんが言ってくれるからいいや」と思っていたのかと思います。

あと学校で、友達が手を貸してくれることもきっとどこかで「私は歩けないんだから当たり前」って思ってたんだと思うのです。

今思うと、自分の小学校時代に友達ができなかったのはこういう「やってもらって当たり前」の傲慢さが出ていたのだと思います。

 

5年の時の臨海学校の時、担任の先生に「ともちゃん、お友達に何かしてもらったらありがとうを言わないとダメだよ」と注意され、そこでハッと気づくのです。

その注意された以降は必ず、「ありがとう」が言えるようになりました。

当たり前のことができない人には友達なんてできるわけないですよね。

6年の時に担任の先生に「ともちゃん、ありがとうが言えるようになったね」とわざわざ先生もほめてくださり、申し訳なかったなと今は思います。

運動会は大嫌い。どうして注目されなきゃいけないの?恥ずかしい

陸上のトラック

体育の授業。はっきり言って大嫌いでした。

みんなと同じようにできなくて、チームワークのグループ競技は、サッカーもバスケも私にボールをくれる人なんてほとんどいません。

理由は簡単です。私は何の戦力にならず、足手まといだからです。

これは中学生のときも全く同じでした。

あるとき先生が「陸上記録会」に出てみないか?と私を誘います。

陸上記録会とは正式な陸上のトラックで、走るタイムを計る市内全体の小学生を対象とした行事で、通常は走るのが得意な子が出るのです。

「足の悪いあなたが出たら、きっとみんな感動する。」そう言われた気がします。

 

しかし、私としては「足が悪い」という理由で皆が注目し、拍手をする。

この行為が本当に嫌でした。

どんなに頑張っても走るのは遅い。「なんで手をたたかれなきゃいけないの? 恥ずかしい。ほっといて」

そう思ってました。

障害があるからという理由で、高貴な目で見られる。

皆と違うんだからしょうがないのはわかっていたけど、やっぱり嫌でした。

一度でいいから何かで一番になりたい。私が取り組んだこととは?

勉強

学校の勉強の成績は中くらいで、得意科目はなし。

体育はもちろん同じようにはできない。

友達もとても少ない。

こんな私でも、何でもいいから一番になってみたい。

そう思った私にビックチャンスがやってきます。

5年、6年の担任の先生が提案した自由勉強です。

何でもいいから自主的に勉強すればよい自由勉強

ノートとえんぴつ

5年の時からこの自由勉強というのはありました。

一般的なA4の大学ノートを配布され、自分の好きなだけ家で勉強し、そのノートを提出して先生にコメントをもらう。

それだけの話です。

つまり宿題ではないので、強制ではありません。

5年のとき、それを一番勉強した子は確か10冊か11冊1年間で勉強していました。

 

6年になったときに、「この自由勉強で一番になってみたい」そう思いました。

これで一番になるのは簡単です。

「たくさん家で自主的に勉強すれば良いのです。点数はつきません」

自由勉強で一番になって、気が付いた自分の継続力

結果的に6年時、1年間で確か大学ノート13冊目まで自由勉強を続けました。

もちろんクラスで一番です。

小学校時代は、とにかく皆に遅れまいとついていくのが必死だった私ですが、この自由勉強で一番になれたことが一番の自信と思い出です。

やると決めたら最後まで貫いてやり抜く力「継続力」が自分の長所だと、気づかされた出来事でした。

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